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大分地方裁判所 昭和37年(わ)5号 判決

被告人 上田倉蔵

昭四・四・一六生 旅館業

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、「被告人は伊東正雄の運転する自動三輪車に同乗し、昭和三六年一二月二八日午前三時頃大分県北海部郡佐賀関町大字関字本町三角屋こと財津ムラ方前路上にさしかかつた際通行中の藤沢正芳(当二三年)より因縁をつけられたことに立腹し、下車するや否や同所において手拳で右藤沢の顔面を数回殴打し、因つて同人に対し全治約一〇日間を要する顔面挫創を負わせたものである。」というのである。

被告人が昭和三六年一二月二七日夜伊東正雄の運転する自動三輪車に同乗し、大分県臼杵市内の酒場二ヶ所に立ち寄りビール二〇本位を飲み、次いで佐賀関町の思い出食堂に寄り更に飲酒し、同所を翌二八日午前三時頃出て、臼杵市に帰るべく、前記自動三輪車に同乗し、佐賀関町大字関本町三角屋こと財津ムラ方前路上にさしかかつたこと、伊東正雄が臼杵に行くことを思い止まり車を転回しようとしたところ、車の後方より歩行して来た藤沢正芳に車が突き当りそうになつたので、同人が助手席に近づき「何をするか」と詰問し、被告人が「運転手が飲んでいるからこらえてくれ」と謝つたこと、そこで藤沢は助手席を離れ車より一間位先に進み立小便をしようとしたところ、伊東がまた車を一間程後退し、ハンドルを充分切直さずアクセルを踏んだため、再び藤沢に突かけそうになつたこと、そのため藤沢が立腹し、再度助手席に近寄り助手台にいた被告人に「一寸降りよ」と呼び掛け、それに応じて被告人が車を降りるや、藤沢は被告人に対し「誰だ」と誰何し、被告人が「上田という者で臼杵高校の現場で働いている」と答えると、藤沢は「お前が上田か」と言つたこと、被告人が更に「運転手は酔つているからこらえてくれ」と謝つたことは、被告人の当公廷における供述、同人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、証人伊東正雄の当公廷における供述を綜合して認めることができる。

証人藤沢正芳及び同香川哲夫の当公廷における各供述、医師香川哲夫作成の診断書の記載を綜合すると、藤沢正芳が本件公訴事実記載の日時頃、公訴事実記載の場所において、顔面に四ヶ所の挫創、二ヶ所に擦過傷を受けたこと、右挫創は何れも創縁がやや不規則で周囲の皮膚組織に擦過傷、出血斑等を見る事から鈍器によつて生じたものと推定され、創は何れも骨膜に達していることが認められる。証人藤沢正芳はその受傷当時の模様について、『「何をすんのや」と車に寄つて行つたら上田が窓を開けて何か言いました。瞭つきりは判らんですが、何かそこで話をして、その儘帰りかけたら、上田が「何を」と後から追つて来て話をする暇もなく叩かれました。……追つて来たと思つたので上田と向き合つたら殴られました。……二発まで殴られるのを憶えています。伊東は車に乗つていました。そして二発目位上田から叩かれる時に運転席の方から車の前を廻つて私の近くに来ました。……二発位叩かれて倒れたのですが、後は判りません。が倒れた後で殴られた記憶はありますが、上田から二発叩かれた以外は見ていないから誰が叩いたか判りません。……「誰や」と言つたら「上田や」と言いました。』と供述し、恰も被告人より二回殴打されたことが動かし難い事実の如くである。しかも藤沢証人は、当夜の自己の飲酒状態については、四合位飲んでいたが、あまり酔つていなかつた旨述べ、自己の記憶の正確さを主張しているのであるが、前掲被告人の供述、同人の司法警察員に対する供述調書の記載、証人伊東正雄の供述によれば、藤沢正芳がかなり酩酊していたことが認められ、これと、前認定の被告人と藤沢との間の会話、或いは藤沢が立小便をしかけたこと等について藤沢にはほとんど記憶がないこと、藤沢が二回ほど叩かれて後の記憶がこれまたほとんどないこと、同人が午前三時頃まで街をうろついていた事実等を綜合すれば、当夜の藤沢の酩酊の度は極めて大でありほとんど泥酔に近いものであつたことが推認される。このような酩酊状態の後熟睡或いは長時間の気絶状態から覚めて過去の体験した事実を追想する場合記憶が断片的不連続的となり、強い印象のみが結合して、それが恰も真実なりと思い込んでしまう傾向がある。従つて、藤沢証人の供述を検討するにも、この様な点について充分な考慮が払われなければならない。藤沢が被告人を誰何して、上田と云う名前を聞いたことと、突然攻撃を受けたという事実が強く記銘され、知覚の脱落している部分が錯覚的幻覚的に補充され、被告人から突然叩かれたと判断するに至つたと思われる節が多分に窺われる。更に同人が被告人に対し敵意をもつているであろう点も考慮されなければならない。されば前記藤沢証人が意識的に虚偽の陳述をしているとは思えないが、同人の記憶がしかく正確であるとは到底認めることができない。従つて同人の供述のみによつて、被告人が藤沢に対し暴行を加えたと断定することは極めて危険である。そこで証人伊東正雄の供述について考察するに、同証人は、『上田が断りを言つて、酔つているから早く帰れとか、帰りやいいじやないかと手で肩を押して帰らせていた状態に見えました………それまで運転席に乗つていましたが、どちらの言葉か判らないのですが、荒くなつたので降りて行きました。運転台から降りて車の前を廻つて行きましたらボンネツトの近い方に藤沢君が居ました。とめるといつてももうそんな段階ではなかつたと思いますが喧嘩する状態で藤沢君を引倒して蹴つたりしました。………藤沢君は動かなかつたと思います。背中を蹴つたが動かないので前に向いて地下足袋履の足で顔を起しました』旨の供述をし、検察官の「被告人の前では言い辛いのか」との問に対し、「そうではないのですが、私の知つている範囲内では乱暴はしていないと思います(註・被告人が乱暴していない意味)」と供述しており、伊東正雄の検察官に対する供述調書(検第八号。刑訴三二一条一項二号書面)にもほぼ同趣旨の供述記載が見られるのである。これ等によれば伊東正雄自身或る程度藤沢に対する暴行を自認すると共に、被告人の行動については語ろうとしていないことが窺われる。これについて検察官は、伊東正雄が被告人をかばつて意識的に被告人の行動について供述していないと解しているようである。しかしながら、伊東正雄は本件被害者藤沢正芳の属する佐賀関町に本拠を置く姫野グループと称せられている暴力団体の一員より昭和三六年の五月頃前歯を二、三本折られると云う重傷を負わされたことがあり、特に本件で逮捕された晩臼杵警察署において刑事等の面前で、「山に連れて行かれた時(註・姫野グループの者より拉致された時のこと)はこわかつた。自分がやつたとは言わんだつた。命拾いした。」と述懐していたことは、証人伊東正雄の当公廷における供述からも認められ、また、同証人は前記藤沢はじめ、姫野グループ関係者の傍聴する中において供述したものであり、その供述前裁判所構内で藤沢正芳より脅迫的な言辞を聞かされていたことは伊東孝子の検察官に対する供述調書謄本(検第一六号。刑訴第三二八条書面)の記載により窺うことができ、同証人の供述内容並びに態度に姫野グループよりの復讐を恐れる心理的動揺が窺知される。ために、その供述も淀み勝で、到底真実をそのままさらけ出して供述したものと考えられない。しかも、同証人と被告人とのこれまでの関係からみて、伊東自ら本件の全責任を負うべく、被告人をかばつて被告人の行動について意識的に沈黙していたものとは到底解し得られない。寧ろ、被告人の暴行行為を何等目撃していないがため、被告人の面前では敢えて被告人に責任を負わせるが如き不信行為には出られないものの、自己の行為を総てさらけ出すことにより自己に振りかかるであろう危難を恐れるのあまり、自己の行為をできるだけ微温的に表現しようとする心理的努力の跡が多分に看取されるのである。右伊東の検察官に対する供述調書(前掲検第八号)の記載にも同証人の右のような心理的努力の跡が見られ、当公廷における供述よりも多少被告人に不利な供述が見られるが、その供述が当公廷における供述以上に信憑力ありとなすべき事情は何等認められない。そこで被告人の供述内容を検討してみる。司法警察員、検察官に対する各供述記載及び当公廷における供述を通じて、藤沢に対する暴行を否認している。被告人には傷害等同種事犯の前科が多数あり、本件についても被告人の所為ではないかと疑われる節はかなり存在している。しかうして累犯者が、一般的にみて初犯者よりも多く犯行を否認する傾向のあることも事実である。しかし、一般的にそうであるからと云つて累犯者なるが故に被告人の否認を直ちに虚偽であると見るのは偏見のそしりを免れないであろう。あくまでも被告人の供述内容を具体的合理的に検討して評価すべきである。被告人は司法警察員に対し、「本月三日(昭和三六年一二月三日)出所して帰りましてから、私は今迄の永い間事件を起して家族の者に大変迷惑をかけていますのでこれ限り事件を起すようなことは絶対しないと決心をなし家内と子供等に堅く誓つています」云々と述べ、また「相手が大変酔つていましたので伊東君が叩いたのを私が叩いたと勘違いをしているのではないでしようか、聞き直してみて下さい」と述べ、当公廷においては、事件前後の模様について、『その時その男が「誰だ」と言うので「上田という者で臼杵高校の現場で働いている」と言うと「お前が上田か」と言うので「運転手は酔つているからこらえてくれ」と言つていると、それまで両手を服のポケツトに入れていたのを出して歩み寄つたので、叩いて来ると思つて車のドアを開けようとして一寸体を半身にしました。するとグワツという声を聞いたので見るとその男の処に伊東が来ていました。………藤沢が倒れる時で伊東は両腕を拳を固めて構えるような格好で立つていました。後で車に乗つて聞いたら伊東は唐突でやつたと言つていました。………同時に伊東は履いていた長靴で藤沢の顔を踏んだり蹴つたりしていました。………(伊東は)その日一日(長靴を)履いていました。それで私はそれを見て伊東を前から行つて藤沢の胸か頭の上を踏越えて伊東の胸あたりを突除けましたが、伊東が大きくて力が強いので後ろから行つて伊東の両腕の上からはがい締めにして引張つて行きました。その時伊東は「誰も見ていないからついでだから轢いて帰るか」と言いましたが「そんなことをしたら浮かばれんから」ととめました。』と述べており、その供述内容並びに供述態度にはそれほど不自然さは認められず、真実性が強く看取される。被告人が保釈後伊東正雄に対し真実を述べてくれるよう頼んだことは、被告人も述べていることであるが、それが虚偽の陳述をするよう依頼したものとは解し難い。前掲伊東孝子の検察官に対する供述調書謄本(検第一六号。刑訴第三二八条書面。)の記載も右見解を左右する資料とはなりえない。なお被告人が事件当時着用していた丹前の裾に直経約一〇糎位の丸い型の血痕が附着していたこと、被告人の妻上田操がそれを洗い落したことは上田操の司法警察員及び検察官に対する各供述調書の記載、被告人の当公廷における供述等により認めることができるが、その附着の状態は詳らかでなく、如何なる機会にどのようにして附着したものかは遂に解明できないし、又証拠湮滅が自己の犯行の隠蔽のみを目的に行われるものとは限らず、友人のために行われることもありうる訳であるから、これ等の事実から直に被告人が真犯人であると断定することはできない。なお事件当日の午後三時頃姫野グループの者数名がタクシー二台に分乗して被告人の所在を探し、更に臼杵方面へ行つたと云うことを被告人が聞知し、伊東の安否が気になり、臼杵に帰ろうと決意し、思い出食堂の調理場より庖丁一丁を持ち出したものの、途中海岸で捨てたという事実は、被告人の司法警察員に対する供述調書の記載により認められるのであるが、事件当時現場に居合せた被告人が被害者等より疑われる立場にあつたことは謂うまでもないことであり、被告人が姫野グループとの衝突をおもんばかつて護身用に兇器を身に帯びようとした心情には一応無理からぬところであり、これをもつて被告人の前記供述の信憑性を疑い、進んで被告人が藤沢を傷害した真犯人であるときめつけることは行き過ぎである。なお被告人が本件事件当時指輪をしていたか否かが問題になつているが、被告人はこれを否定しているし、それを積極に認むべき証拠はなく、仮に検察官主張のように被告人が指輪を嵌めていた手で、藤沢を殴打し、前掲診断書の如き傷害を与えたとするならば、その反動として当然被告人の手にも相当な反応が現われなければならない筋合いであるのに、そのような点については捜査も尽されておらず、又何等の痕跡も残つていない。なお、検察官は被告人の弁解が正しいとするならば、伊東正雄の供述と被告人の供述とがもつと一致すべきであると言うのであるが、以上述べてきた両者の立場から見て供述が合致しないのが当然であり、それが合致すべきであると云うのは難きを求めるものである。以上縷々記述したように、本件犯行が被告人の所為であると認むべき充分な証拠は遂に発見することができないので、結局本件は犯罪の証明なきに帰するので、刑事訴訟法第三三六条に則り被告人に無罪の言渡をなすべきものである。

よつて、主文の通り判決する。

(裁判官 小沢博)

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